2016年8月4日木曜日

俺の植村泰英 史

長いので、電車の中で時間があれば読んでみてください。

俺には植村泰英という親友がいます。俺は彼を虹色と呼びます。
16歳からの付き合いなので、もう人生の半分以上は彼と友達です。
俺には親友がいっぱいいるので、学年は1つ下ですが彼の事を幼馴染と言っています。

美術科のある高校に通っていました。
高校2年の春休みからゴールデンウィークくらいまで、俺は入院していました。
入院生活は案外楽しくて、毎日友達が放課後とか日中のさぼり場に遊びに来てくれました。
ある日、クラスメイトが病室に来て「タバコをすう1年が入ってきた」と言いました。
それが虹色でした。
退院して学校に行きだし、放課後に「一緒にタバコすう?」って俺が誘って、「え?いいんですか?」っていうのが、
初めての会話でした。
その日のうちに敬語はなくなり、地元の駅が隣どうしだったので、俺のバイトの無い日や
お互い彼女と会わない日は絶対くらい遊んでいました。
そこから頻度は増え続けてひどい時は週7で遊んでいました。
こんなに感覚が合う奴は初めてで、音楽、服装、絵、当時全てにおいて絶大な影響を受けました。

18歳で香川から上京し、専門学校に入りました。1年後に虹色も同じ学校に入学しました。
虹色は上京してから、生活費を自分で働いて賄っていたので、地元ほど遊べませんでしたが、よく一緒にいました。
お互いお正月に地元に帰っても、そこで会って飲んでいました。
今、この文章を書いていて、どんだけ一緒におるんやと気持悪いです。

22歳から3年間、一緒にバンドをしました。
そのあたりから、俺たちは昔のようではなくなりました。

ただ俺たちは、割った薪では無くって限りなく平行に近い線と同じで、実は少し角度が違っていました。
その線が長く続けば続くほど角度は開いて目に見えるようになり、意見は食い違い、突っ掛かり、
会う頻度は歳をとるごとに少なくなりました。
俺は、ずっと一緒に居たかったんですが、20代半ばの頃にその平行に見えた線は明らかにハの字型でした。

27歳、数人の仲間とKNAKEDというアート活動を始めました。
途中から虹色も参加しましたが、それはハの字が修正された訳ではなく、ノリに近いもので、
KNAKEDを休止する頃に虹色は脱退しました。

29歳の時に、偶然お互い近所に住んでいました。それでもたまに飲む程度でした。
そのまま30代になって、お互い引っ越して、年に1回会うか会わないかになりました。

俺はそうなった事をたまに考えていました。悲しい、寂しいとかの感情とは違って、極淡白にです。
何が悪い訳でもなく、種と苗が似ていただけで、生った果物が別なだけかと、結論が出ました。

今年の6月、SUMMER SONIC 2016内で行われる、ライブペイントのイベント、SONICART 2016
メッセサイドに参加するクリエイターが発表されました。
その中に虹色の名前、植村泰英がありました。
俺は、昨年と一昨年に参加させてもらっていて、虹色が選出された事にすごく興奮しました。
友達や仕事仲間に、やべーやべーと言い続けました。

何年振りかもしれない電話を虹色にしてみました。
「虹色って今、東京に住んどるん?」って会話からでした。数日後、5年ぶりに2人で飲みました。
何でも無い話から真剣な話、会ってなかった時の話、いろんな話をしました。
お互いにいい歳なので反発するような会話もなく、朝までずっと話していました。
生った果物は違うけど、向いている方角は同じなんだなという結論が新しく生まれました。

昨年一緒にすんでいた毛むくじゃらが同居中に言いました。
「虹色と一緒に2人展やれば?」
「それは無いと思うよ」と俺が返すのでした。
今は『もしかしたらやるかも』とか『一緒にやりたいな』と話すくらい現実味を帯びてきました。
人生という砂利道はどういう経路で転がっていくか解らん物ですが、少し長生きしてみたくなりました。

とはいえ、俺たちはもともとハの字なので、夏が終わると今度いつ会うか解りません。
それが早いのか遅いのか、一生会わないかもしれません。
ハの字は末広がりなので、どう転んでも大吉だろうと思います。

とりあえず、このクソ忙しいのを乗り越えてサマソニでしこたま飲めるように体調崩さないようにします。

平行ってことは、ずっと交わらんってことやなと今気付いた。
ハの字で良かったなって、今思った。
てっちゃんはどう思う?

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